所 感

所感

 思ったことを書きます。誤字を除きデリート・バックスペースは使わない、というルールで行きます。性別の話とか苦手な人はやめてください。

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 突然ですが最近、髪を伸ばしています。理由はいくつかあるのですが、一つには髪を伸ばしたほうがまとまるからというのがあります。短いほうがはねやすいんですね。それとは別に、長い髪への憧れみたいなものが確かに存在します。

 元々、自分は男性であるので、女性へのコンプレックスがあります。これは誤解されないでほしいのですが、ここでのコンプレックスが意味することは、例えば女性歌手の歌をよく聴いたりとか、文学も女性作家を好んだりとかいうことであって、本当に文字通りの憧れがあるのです。わかりやすいところで言えば与謝野晶子の「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」とか「ゆあみする……」「ああ皐月……」なんていうのを読んだときに、痛く感動すると同時に、やはりこのような作品は自分には書けないし、真に理解することもできないのだろう、という強い悲観のようなものに襲われたわけです。

 そもそも、人は成れないものにこそ憧れます。例えばぼんやりと社長になりた~い、とか言っている人を見たら、我々はじゃあ起業すればいいじゃんと思いますが、ぼんやりと言っているだけの彼らは、きっと自分が成れないとわかっているからこそ憧れているのではないでしょうか。この類の思いは、ほとんど「鳥になりたい」と同じ穴の狢です。そして、私が言っているのもこれと同じです。

 近年はようやくLGBTQ云々の議論が進んできましたが、しかしどれだけ時代が進もうと、性別というのは恐らく人類を二分する巨大な壁として、最後まで大きく立ちはだかるでしょう。なぜならば、他人が判断する要素があるからです。

 勝手な思い込みで話しますが、対立概念として「男」と「女」がある以上、そして本能的に生殖のために判断が必要な以上、人はそのどちらかに全員を分類して考えるのではないかと思います。これは不可避なことであり、きっとLGBTQだろうが何だろうが、それをよく知らない他者によって、あなたはどちらかに分類されているのだと思います。ですから、不特定多数の第三者に見られたときの性別についてありうるのは、「男」か「女」、そしてせいぜいあって「男でも女でもない」でしょう。きっと中性的な見た目だったとしても、「男であり女である」とは判断されにくいのではなかろうかと思います。

 私はこのような考えを経て、結局異性へのコンプレックスは不可避で当然のものなのだなと認識するようになりました。つまり、仮に手術などを経て女性になったところで、今度は「男性でない」ことがコンプレックスになってしまうわけです。確かに自分は性別の壁がなくても絵は描けないし、歌は下手だから、「自分に備わっていない能力があることなんて当然じゃないか」と言われたらそれまでですが、しかしそれでも性別は自分にとって「一番欠けているもの」ですから、それだけにコンプレックスを免れ得ないわけです。

 目聡い読者の方なら、ここで薄々お気づきになったかもしれませんが、私は実は長い髪を(これは他にもあるのだけれど、話が広がりすぎるのでここでは髪に絞って話しますが)ある程度女性性のアイコンだと考えており、そのアイコンを得ることで、理論上は獲得不能な中性へと近づこうとしているわけです。しかし、その過程で「男なのにそんな髪なんて……」と言われたとしたらそのときは、「いやいや、髪型に性別なんてないだろう」と答えるだろうと想定されるわけですね。都合の良いところだけ使っておいて、醜い人間です。

 でも、開き直るわけじゃありませんが、掲げている理想論と、実際に社会でどういう認識が持たれているのか、という二者は、必ずいつもズレを生じているわけですから、方や理想論として掲げ、方や実際の方法論として使うのも仕方のないことかもしれません。本当にどうかはよくわかりません。

 ともかく、なんだかんだ言ってここまで述べてきた私が一番性別に縛られているのではないか、という話なんですが(これはLGBT活動家の方たちにも言えることだと思う)、きっと性別の壁は大きいのだと思います。私が想像している以上に。

 

 いろいろ書いてきましたが、今度恋愛対象の話になるとまた話がややこしくなりますね。正直言って私は、「異性愛者だ!」とも「同性愛者だ!」とも、或いは「両性愛者だ!」とも主張できるほど自信はありません。面倒だからバイだよ~って適当に言ってきましたが(そんなに公に言ってもいないか)、実際のところはさあわかりませんといか言いようがない。アセクシャルかというと、そういうわけでもないんですねこれが。

 これは純粋な疑問なのですが、自分の性指向を自認している人たちって、何を以て判断しているのでしょうね。例えば人を好きになることがまだ一人しか経験していなかったとしたら、それは自分の一般の傾向を測るにはやや不足です(個人の意見です)。あくまでその人が人として好きなだけかもしれませんよね(そして実際は性指向が逆だったようだ、という例も散見しています)。だからと言って、何十人にも恋しました! というのも、それはそれで惚れやすすぎで、本当に好きなのかわかりませんよね(個人の意見です)。

 結局、ここからわかるのはただ一つで、「多くの人はこんなことで悩んでいないのだから、自分はそれ(=純粋な異性愛者)ではないのかもしれない」ということだけです(個人の意見です)。

 はっきり言って、僕にはもうよくわかりません。恋愛もウン年前からしていませんし、相手のことが「そういう意味で」好きなのかなんてことはわからないままです。「人として」は断言できますが。

 

 私がなぜ「髪を伸ばそうと思っている」と、聞かれてもないのに多くの人に触れ回っているかといえば、それは中途半端な時期が一番つらく、切りたさに負けかねないからです。ちょうど今がその時期に入ったあたりです。

 家で髪を軽く結んでいたとき、家族に「あんま似合わないね」という旨のことをあっさりと言われました。恐らく、客観的判断としてそうなのでしょう。私は今、この髪型で外出することで被る、恥じるような事態を避けることを得たわけです。これは非常に幸運なことです。しかしながら、同時に少々落ち込みもしたのが実際です。とはいえ、冒頭でも述べた通り別に男性をやめて女性になりたいわけではないので、特に告白することもなく、まあそうだよね~と受け流すくらいに留めたわけです。

 難しい問題ではありますが、「キモい」のような断定的な価値判断も必要悪ではあると思います。そりゃあ勿論誰もが何のことをも外見で否定的に思わない世界が来たら素晴らしいとは思いますが、容姿による判断って、理性を飛び越えてもっと先の、本能的な部分に由来している気がします。だから、前提としてみんなが「キモい」と思うものについては「キモい」と思われているわけですが、それを誰も口にしなかったら、裸の王様のままで終わってしまいます。誰かが口にしてあげるということが、本当に良いことかどうかはともかく、私にとってはあって欲しいものです。

 だから、下手に「配慮」しすぎる昨今の風潮も、勿論それで傷つく人が減ることは何よりも大事なのですが、全面的には肯定しかねる部分があります。結局自分がどうなりたいのかとか、自分でもさっぱりわからない状態ではありますが、今の社会に一つだけ願うとしたら、もうちょっと適当に、曖昧に生きていても良い社会であってほしいなと思うのみです。

 

 ふいに書かねばという思いに急き立てられたので、数年前からそのうち書こうと思っていたものを、勢いで一時間かけて書いてしまいました。夜も深まってまいりましたね。こういう時間が一番幸せですよね。しかしどうやら髪も爪も肌も、整えるには生活リズムと食生活等を整えることだそうですし、そろそろ寝ることとしましょう。では。