日記の憂鬱

これまでに何度か、日記をつけようと試みたことがあるが、凡そ挫折に終わっている。単にこの不継続を私の三日坊主に帰することもできるかもしれないが、少々発見もあったので、ここに記したい。

なぜ私が日記を不意に辞めたか。これを考えるには、第一に、日記とは何かを考える必要がある。

日記とは、読み返す目的で記されるものではないだろうか。

少くとも私の場合は、読者を想定せねば文章を書く原動力が湧かない。それゆえに、毎日今日あったことを文章に起して見せるべき相手もいない私にとって、大前提として日記は読み返すものである必要があるのだ。なおここでいう「読み返す」とは、私以外の人間が将来読むことも含む。

しかし、古い日記を読み返すというのが実に恐ろしい体験であろうことは、想像に難くない。過去への経路が二通り生まれてしまうからだ。

過去を想起するのは、日記をつけない限り、記憶による術しかない。写真や映像、他者の記憶、当時使った物品など、様々なものが己の記憶には関与してくるが、それらは総て触媒に過ぎぬ。意識的および無意識的に心中に残されていた自らの記憶こそが軸となって、種々の触媒による変成を受けながら、遂に我々は過去への交通を可能にするのだ。

では日記も同じく触媒たるか、というと、少し違うように思う。日記は、確かに自分の記憶そのものにも影響を与えるという点で触媒でもある。だが、文中に吐露された、あるいは通底している感情は、「執筆当時の私」という、現在の私とは異なる人間の感情に違いない。

しかるに、日記とは当時の記憶の冷凍保存なのであり、もっと言えばこの「当時の記憶」と「現在の記憶」の併存状態とは、SFで喩えればコールドスリープによって眠ったままだった「数十年前の私」と、彼とは別に数十年間を生きてその分年老いた「現在の私」がなぜか同時に存在している状況と同様の、倫理的にさえ問題がある話なのだ。この併存に、将来耐える自信はない。

第二に、日記を書く際の精神にも着目したい。よく言われることとして、日記を書けば一日々々を振り返り、有意義に過ごせる——という主張がある。これは確かに一理ある話なのだが、随分厭な話でもある。

普通に暮らしていれば、余程記憶力に長けていない限り、任意の記憶が何月何日のものかなど、特別な一日でなければすぐに忘れてしまう。例えば、カフェーで「前に来たときはこれを頼んだから、今日はこっちにしよう」という思考回路はよく働く。しかしながら、前に来たのがいつかなど、大抵覚えていない。凡そ過去は、過去というだけで一緒くたにされてしまい、それを何年の何月ごろかという程度にまでは区分できても、それ以上は解像度が高くない領域として現前するのだ。

しかしながら、日記はその曖昧さを許さない。日記帳の一頁が、あるいは一行が、かつて経験した日々を明確に区分したままで、その境界線は永遠に薄れることがない。その瞬間に、自分が経験してきた日々は細切れにされ、流れとしての過去は断ち切られ、ディジタルな時間の中を生きることを強いられるようになる。

私は、叶うことなら時の流れの中で暮らしたい。一桝毎に区切られた方眼の牢に閉じ込められて窮屈な人生を送るというのは真っ平御免だ。だから、日記は書くまい。

ただ、過去の自分の思考を垣間見る程度には残しておくのもまた乙なものだろうと思うから、毎日ではなく中長期的なスパンで、日々の記録ではなく汎く最近の思惟を、自分宛てではなくて公開に耐えうるレヴェルで書くことにしてみるのも良いのかもしれぬ。